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ハルの記録

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肝臓先生/坂口安吾

「魔の退屈」「私は海をだきしめていたい」「ジロリの女」「行雲流水」「肝臓先生」の5篇が収録されている。

「魔の退屈」
戦争の最中も戦後も、全く変われなかった自分の生き様を「悪魔的」と称している。
泣きもせず笑いもせず、ただただ荒廃していく魂を傍観者のようにしかし一時も目を離すことなく眺めているような感じだ。
けれど、諦め以外の感情も文章の端々にある気がした。

「私は海をだきしめていたい」
不感症の女性を通して自分の孤独を見つめる話だ。
内容的にはこいつ何言ってんだ、ナルシストと思う人も多いかなと思った。
ちなみに、登場人物の葛藤がどんなふうに描写されているかを楽しむのが純文学だと私は思うので、純文学を読むときはストーリー等に気になる点があっても、あまり深く突っ込まずに読むようにしている。
深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。という言葉が浮かんだ。

「ジロリの女」
主人公の三船が言うところの「ジロリの女」を、体を張って道化になってでも、ものにしていく話である。
三船、だいぶおかしい人だ。
どこどこの誰々さんが〇〇で大変で、それで誰々さんの弟が云々という具合に話が進んでいくので、
文章能力はうんと高いが近所の噂好きのおばさんの日記を読まされているような感覚に少し陥る。
けれど、オチが秀逸。オチがたった数行なのも良い。

「行雲流水」
「人間なんてこんなものだよ」という坂口安吾の言葉が聞こえてきそうな作品。
人の業や欲望が見事に描かれている。
終始セリフが江戸弁で、短編なので、軽い感じでまとまっているのも大変良い。

「肝臓先生」
「魔の退屈」の主人公の生き様が「悪魔的」であるならば、
この小説の主人公・肝臓先生は正反対の「救世主的」「神仏的」な生き方ではないか。
前の4つの短編に人の虚しさがここぞとばかりに描かれているだけに、
この作品がものすごく異色に見えてしまうから不思議である。
肝臓先生だけ読んでも、坂口安吾の味わい深さのようなものはイマイチわからないのではないかと思う。
なので、肝臓先生が読みたいと思ったら、肝臓先生を読む前に人の虚しさが描かれている坂口安吾の他の作品をいくつか読むことを、オススメする。


この本の解説文には、「吾に安んじず」という表現を用いて解説していた。
本当にそのとおりだと思う。
つまり魂のデカダンスと無縁なのであり、人のことを考えるが、自分自身の魂と争うことがないのだと私は思った(魔の退屈)
としつつも、肝臓先生の作中にある、肝臓先生に捧げる詩の中では、
肝臓を治せ
たたかえ!たたかえ!流行性肝臓炎と!
たたかえ!たたかえ!
たたかえ! 
とある。

坂口安吾が自分自身の魂と争っていたかどうかは、当人しかわからないが、
小説を書くことで、人間を吾を追い求め続けていたのではないかと思う。

※その他の本の感想は、この記事の一覧表を参照して下さい。




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